昭和47年7月26日朝第68節
入力・井出一憲
小さな音でも神には聞こえると、どのような例えばあー微妙な心の動きでも神様に通うのです。今日あたくし身に徳を受ける修行と言う事は、辛抱と言う事なんですけれど、うーん色んな事で辛抱させて貰わなければなりませんけれど、折角有難いと言う心がこの生まれて来ると言うか、そう言う有難いと言う芽が出るって言うかね、そう言う時にその有難いと言うその芽がアラッと言う間に消えてなくなる事がある。信心とはその有難いと言う事が?育てて行く事であり、そしてそれを立派に育てて行くと言う事、そして華も咲かせたい実も実らせたいと言う訳なんです。昨日は25日研修会でございましたから本当のまあ、本当の研修会でわたくしを始め皆さん本当におかげを頂いたと、言うてまあ解散さしてもろたんですけど、まあ言うならばおかげ話などと言うのはもうされないような雰囲気でしたね。
本当に信心を研修すると言う姿勢でね、それも広く深くまあ研修本当の意味で研修させて頂きました。中でどなたでしょうかね秋山さんだったでしょうか、本当に信心させて頂いておるとまあ素晴らしいおかげお繰り合わせを頂きます。素晴らしいそのタイミングの中にね本当に神様のご守護を受けておる印、受けておるおかげと言ったようなものがあの感じられます。ですからそう言うような時にですね、それをすぐ人に誰にか話さなければおられないような衝動が起きて来るんですね。ほんと神様ちゃありがたかですな、もうチョットこうだったああだった、もうこう言う事にはだからあたし自信がついた、などと言う話をする訳ですね。だからあたしがあたし内容はまだ分からなかったですけど、そげなこつしよるとおかげが止まってしまうよと言うて話した事でした。お互い信心させて頂いているとですね、
もう本当におかげと実感しなければおられない事が、まあお互い段々四六時中あるようにならなきゃならんのですけれども、取り分け本当神様のおかげと言わなければおられない程しのおかげがね、うーん頂く訳なんです。所がですそう言う例えばおかげをね、人に話しよるとね、折角のおかげの芽がねそれだけで消えてしまうんです。そして不思議にそう言う事では又おかげ頂くまでは、チョット時間がかかると言ったようなそう言う皆さん体験はないでしょうか。今日私はそう言う意味でね、有難いもうほんとに人に聞いてもらわなきゃおられないようなものであっても、お取次ぎ頂いてから各おかげを頂きましたら別だけどもです、それはジット自分の心の中にですね、こう温めておくと言うかね、その有難いと言うものを育てると言う事なんですよ所謂、ね、温めると言う事チョットもう本当神様ありがとして、
有難いもう兎に角間違いないのには驚くばっかりだと言うようにですね、もうそん時そん時で消えて行くです不思議に、勿論それが人に話してもどんなにそれを誰に聞いて貰うてもです、それが消えんようになって行く世界も又ありますよね。けれどもお互い本当に例えば今日徳を受けるめでの辛抱なんです、身に徳を受けると仰る、ね、只あの辛いとか苦しいとかと言う所だけを辛抱するんじゃない、もう有難うしてこたえん事をです、でももう家族の者にもです、ね、話さずに辛抱してジット自分の心の中に、それを育てそれをいよいよ本格的にして行く努力と言うものはですやはり辛抱です。皆さんそう言う体験ないでしょうか、ほんとに有難いおかげもう日々の中に、又金光様のご信心を頂いてえー言うならこうリズムカルな生き方と申しますね、先日あの竹内先生が見えてからわたくしはあの合楽の楽と言う字が、
あの学と言う字であると言う事から思うのですけれども、これは親先生がいつもおっしゃるあの天地が奏でて下さるひとつの調べ、ひとつのリズム合楽の場合これが非常に強調されて、ね、日々刻々言うならば天地のそうしたリズムに乗っての生活、ですからそこにはあー素晴らしいこれは良し悪しにつけて、素晴らしいタイミングに日々生活さして頂けれるそういうような事がもうそれこそ、昔の昔から神定められておった、合楽と言う合楽と言う所にまあ教会が出けると、まあ大坪総一郎と言う人間が合楽教会の初代教会長になると言ったような事、そう言う神定めになられておるものをです、合楽と言うあのその楽と言う字それを学とも読む、ね、音楽の楽と言う字、と言う中からそう言うものをこの頃感じますと言うておられました。だから親先生合楽と言う事にはいろんな意味があるんでしょう。けれどもそう言う意味もやっぱあるでしょうなと言うて私もあの聞かせて頂いた事でございました。
ね、ですからここに辺は実にデリケートなね、そう言う合楽的天地のリズムを感受する、受けて行けれるそう言う信心を皆さん稽古してる訳ですから、ね、合楽流のおかげと言うのはもう本当にひとつのそうした、リズムが出て来る生活、ね、本当に聞きようじゃ作り話じゃないだろうかと思うような素晴らしい神様のご演出を感じる事がある。ですからわたしはそこん所を頂いて行く信心が尊いと思います。けれどもそれはそう言うおかげを頂いておるけれどもです、だからそれを言わば徳を受ける修行じゃと言う所に持って行きたいと思いますね。ほなら皆さんでもそう言う本当の間違いない神様の働きを日々感じて有難いと思われる、例えば朝参り日参り出きる訳です。のと私は思います。ね、ですからそう言う素晴らしいタイミング素晴らしいおかげが、身に徳を受けると言う所徳になると言う所までわたくしは育っていかなければ行けないと思うんですよ。ね、ですからそう言うひとつの神様の囁きとも思われるようなものを、聞き取らせて頂けれる信心をまずしなきゃいけません、
ね、合楽ではそう言う教導を受けます。ね、昨日綾部さんがお話しなっとられましたけど、どうか私半年ばっかりはもうまるっきり、こじつけた事ふうな事ばっかり親先生言いなさるけん、何か妙な感じだったと、最近ではあたし一番始めお参りさせて貰うた時に、親先生が今あの大川橋蔵と頂いたち、その大川橋蔵の大の字やら橋の字やら川の字やら、それから橋の字蔵の字大川橋蔵と言うその字で、解釈をして御理解をして下さったと。けど何かこじつけられた事あって半年ぐらいは、お話を頂いておるとそう言うようなお話が沢山出て来る。ね、ひとつの漢字なら漢字を崩してね、あの分解して解釈をされたりと言ったような事が、どうかこうまあ実感として有難いと言えなかったけれども、最近はその事の例えば間違いない神様の言わばあたくし共にわかりやすく表現して下さるその事が、要約有難くなったと言う意味の事を言っておられます。ですから合楽の場合そう言う事がです、本当に身についてこなければ、
合楽的ひとつのリズムと言ったようなものには触れられないと思うですね。昨日一昨日でしたか、高橋さん長崎の方へあちらのお店の方へ行きました。もう疲れ果てての事ですから本当にあのうーんしっかりと売りなさいよと、はあもうもう眠ってからズット行きますち、もう眠る運転のようなハット思う事ばっかりだったと、けれども神様のご守護の中にあると思うとフット目が覚める。もうそりゃ本当考えてみると不思議で不思議でたまらん事ばっかりなんだと、所謂高橋さんの言うのに、うならこっから長崎においでになられる間にもです、もう本当に神様のご守護受け取るなーと、思わなおられないような事になるんです。こっから少しばかり行かれた所がね、前を通っている車があたくしの車のナンバーと同じだったち言うんです。ただ福岡県と佐賀県だけなんです。しかもそれが長崎まで行ったち、
だからそれがもう見え隠れに、まあ追いついたり後になったりして行くのを見てからですね、この神様の働きの素晴らしさと思うとね、心が何か活き活きとした言うなら眠い心の中に、眠りよる心がね活き活きして来る訳なんですよ。もう本当にそれだけでも神様のそれこそ後になり先になりして、お守り下さっとる事が分かるねと言うて、見えてから話し聞きましてね、ただ佐賀と福岡勿論それが福岡にふたつある筈ありませんから、ね、佐賀と福岡のナンバーの違いだけであって同じあのナンバーの車が言わばあたくしを守って行ってくれように、後になり先になりして長崎までまいりましたと言うておられます。そう言う事はもういつも皆さんもう言われる事ですし、だからそれはチョイト偶然ふが良かったと言うだけでなくてです、いつも感じるおかげ私合楽の方達の場合なんか、だからそう言う話しを他所の教会なら、
他所の教会行っておかげ話ししたゃですね、それ実感として皆が受けとらんです。えらい調子のよか事言いよるぐらいのこってす。けども合楽でしばらく稽古させて頂いたならばです、このリズムを取り外したら、もう何か神様が遠のいてござる事感じがするでしょうが、所が始めの間は分からんです、イヤいかにもこじつけられとるようにあるです。ですからそう言う素晴らしい言わば神様のね、そういうおかげをねそう言う例えば有難さをね育てて行くと言う事をなんです。ね、もうそう言う有難さを自分の心の中にジット秘めて行く温めて行く、そこにはね相当のやはり辛抱が要るんですよ。よくあのご心眼なんかを頂いたらご神夢なんか頂く人達はすぐ人に話そう事してこたえん。久富くにかさんね、それから原節子さんもうチョイトあんたどん馬鹿じゃなかのち、言うごた今日ああたチョットああたの夢ば頂いたよち、
言うてからもうそれこそ、それば言わなおられんものがある、わたくし共もそうだったですけども神様非常に厳しくそれを止められたです。今から考えますと、ははあ、ああ言う時にまあなんち神様素晴らしい有難い事を教えて下さるじゃろかと、とそれをジッート自分の心に育って徳になる所まで持って行く事の為なんです。誰でん彼でん話せと言うて下さるとじゃないです。そん中には必ずそして自慢のような心も出て来るです。そりけん言いなさんな言いなさんな、私何遍言うたか分からんけれどもやっぱ言う、ね、こりゃ例えば久富くにかさんなら久富くにかさんだけに下さる神様の御信用なんですよ言うならば、もうこりゃ原節子さんだけにしか下さらない事なんですよ。ね、それを例えば人に伝える、人もまたホーち言うてから、だから本人達の信心を知っとる人達は、ほんにああた達は素晴らしかですねち言うてから、まあ聞きますけどもそれまでのものになってしまう。頂いてもジット、
今日はこう言うお知らせを頂いたと、お取次ぎ頂いてもそれこそ主人にでん家内にでん話しちゃでけん、ね、あたくし共はこのあの肉眼で神様の世界を拝ませて頂いた時なんかは、もうこりゃ極秘も極秘もう一生言うてはならんよう頂いた時代がありました。十年目ぐらいもうその事が枯れてしまうと言うか、言うならそう言うようなこりゃわたくしだけに下さる特別な神様のご信用ですからね、しかも教祖様生神金光大神様が神界でもう厳然として、お取次ぎを下さってあるお姿を拝んだんですから肉眼で、もう本当にそれこそもう気違いなろ事ビックリしました。それもそうとうながい時間。ね、ですからもうそれは勿論あたくしだけのものでも、これはチョット?大変な事だな、こう言う事神様がお知らせ下さるようになったら、こりゃいよいよ大変な事だなと思いだけでした。そしてもうこれだけはどれだけ人間がおるか分からんばってん、もう大坪総一郎だけしか教えて下さらないもうこりゃだから、
自分のものだから人にも伝えられないと思ったし、又それを差し止めを頂いとりましたけど、それがひとつの言いたいけれど辛抱さして頂く、それがひとつの徳と言う所になったらほならこうやって、皆さんに誰にでもだから死んだからと言うてね、もういっちょん悲観する事ないよ、金光様のご信心さえ頂いたら金光大神の世界があって、そしてその金光大神教祖様のお取次ぎを頂かれる程しのおかげを頂かれるのだから、決して寂しい事でもなからなければ、またはあの世に送った後のものでも悲しむ事ではないと言うような事は言えれる。例えばこりゃご神夢と言うような事でもですね、誰でん彼でんもう決してしゃっべちゃならんです。今日は皆さんあたくしはその辛抱こそ身に徳を受ける修行、それがひとつの徳になったらです、ほならあたくしも毎日神様にお知らせ頂いた事皆さんに聞いて頂きよりますけども、
それはもうまあ言うならば半分も申しよりません。しかもほならわたくしは申しましてもあたくしの場合にはある意味でもうそれがもう、ね、徳になっておるのですから怪我もなからなければ差し障つかえもない、それによって虚しいようなものを感ずる事もないのです。皆さんそれを感じられるでしょう。神様頂いた事なんか人に話しよったら、後は空になってしまうからむなーしなるでしょうが、いやこれはあの例えばあのおかげ話し話すでもそうですよ、ね、必ずおかげ話しを例えばあたくし共昔あのよくお話参りますとお話をいたします。そすとやっぱり5のもんは10の事お話をする、からでもありましょうけれどもそのお話をした後の虚しさと言うものは、せなよかったと言う事虚しなるもんです。ね、けれどもうなら百のものを頂いとるものを、十か二十か言うぐらいな事ならもう有難いばっかりです。
それがもう辛抱せんでもよいぐらいにならせて頂く、そこに身に徳を受ける辛抱と言う事がです言える訳ですね。皆さんこれからは特にね、霊徳に触れて行かれる方達はどうぞあの本気でそこん所辛抱なさりますとね、それがいよいよ有難いものに育って行くです。ご神夢頂いたこってんなんでんかんでん、誰でん彼でん話しちゃならんです。ね、お取次ぎを頂く事はどのような言わばご神意のある事じゃ分からんから頂かにゃならんけれども、それを言うならば主人にでも家内にでも、ね、今日ああたこう言うお知らせ頂きましたけんてんなんてんち言うたこたぁ言うちゃならんて、只あなたにだけの神様の言うならお知らせなんだから、ね、それがおかげになってしまえた後に話すことはいいです。今日の辛抱はえらい変わった辛抱でしょう、けれども必ずその辛抱しないと後に空しいなると言う事は、折角喜びの芽が出たにも関わらず喜びの目が枯れる事になるのですよ。有難い芽が、ね、から思い立つ、
本当に例えば人の悪口を言う、まあ心安い気持ちのおうたもんには、チョイトようけ誰々さんはああじゃったこうじゃったと、ね、これも中々辛抱ができんですもんね。言おう事ある悪口言わなければならないような事を、聞いたら見たりして来ると、それを誰か心安うしとる人にすぐそれを話そう事ある、ね、勿論これは信心の上から言うてもです、ね、人の不行状を見て我が身の不行状になる事と仰る御教えもあるぐらいですし、ね、人の悪い気?は我が悪い気だ?といわれるぐらいですから、ね、所が不思議な事でね人の悪口やらを話しよると本当に聞く方も楽しい、なんちゅうでしょうかねやっぱし人間の心の中に悪魔的なものがあるのでしょうね。人のヒソヒソ話しなんかしよりますとこうやってあの陰からでも聞こう事ある。ね、ですからこりゃあなただけですばい人にどん言いなさんなと言うような悪口でもです、
辛抱できんからチョイトチョイト、あなた聞いて下さいと言うて言いよるとです。だからここん所がこりゃ取り分けの所ですけれどもです、これはねうなら信心の徳を頂いて行きよってもそれを又帳消しにするような結果になると私思うデす。ね、だから人の悪口と言ったような事を言いたいです誰ちゃ聞いて貰いたいです。こりゃもう私を始め人の悪口をよく言うんですけどもね、まあ今朝の御理解を頂いてから、はあーこりゃ悪口を言いたい時には金光様金光様で辛抱せないかんなと今あたし思いよります。何故かと言うとおしかもん、折角のよいものがそれによって差し引かれる。悪口を言うたからち言うてだーれも得するものはおらんとじゃん、ね、それが今度本人共分かるとあの人があたしのコツばあげん言うちゃったと、
言うてから腹かかなにゃん。ね、腹かかせたりもせなならん。けどもそう言う時にですジット辛抱するあたくしゃ辛抱。ね、所謂身に徳を受ける辛抱なんです。人を傷つけたり、ね、するような例えば人の人格を傷つけたりするような悪口やらは、ね、そりゃもう言いたいでしょうけれどもね言うちゃならん、もうだーれんこれだけああただけの話しじゃけんでとどまる事はない、必ずまたこりゃああたの話しですばいち、今日誰々さんから聞いた話しですけん間違いない話しですと、言うてもうそれがどんどんあたしゃ不思議とならん事はですね、どんなに極秘にしとる事でも悪口を言うたら、もうすぐお広前イッパイにひろがっとる事に驚きます、そりけん言わなよかばってんやっぱ言いたいもんじゃから辛抱がでけずに言う訳なんです。ね、それがいかに信心させて頂いて徳積みの稽古させて頂いたとる者には、
マイナスになる事か、損になる事かと言う事をね、ひとつ分からせて頂いて、ね、人の悪口を言いたい時にはです、ね、それこそ金光様金光様今こそお徳を受ける辛抱をさせて頂いとる時と思うて、あたくしは心掛けさせて頂かにゃならん、同時に今日は今度それとは反対な有難い事、ね、段々信心をさせて頂いておりますとです、本当に神様がねこれはあたくしだけに下さるものであろうと思われるように、ね、素晴らしいタイミングの中にもうチョット神様の働きには恐れ入ってしまうと、言った話しを誰でん彼でんあんまりせんで、ね、それは自分の心の中にそれをジッート温めて、もういよいよ素晴らしいおかげを頂き続けて行く事に、精進させて貰う。そしてそれが徳と言う所まで、ね、身に徳を受けると仰るその徳とまでならせて頂けれる程しのです、おかげを頂いたらこりゃまた別であります。
ね、特になら霊徳に触れていかれる方達が、ね、ご神夢頂いたご心眼を頂いたと言うような事をです、誰かれにね、こりゃもうお喋りです、ね、ですからねそりゃもうおかげにならんどこじゃなくてですたい、ね、神様が例えば原節子なら原節子だけに下さったものを人に吹聴するなら、神様が他んもんにやったちゃなかぞち言うてから腹かきなさったちゃしようなか、ね、それを誰でん彼でんもう心安か人には、チョイト聞いて下さい今日はこげな、と言うような事はもうその場で喜びの芽を積んでしまうようなもの。特に夢のなかに誰々さんが現われたりすると、今日はああたん夢ばこげんして頂いた、ね、そしたらそれを聞いた人が又ここでお届けをされる、そげなこつば言うちゃったのち、わたしゃここでいつも言う事ですけれどもですね、こりゃ本当にいよいよ合楽でこりゃもう言うなら合楽だけで、なからなきゃ通用せんお話かも知れません今日のお話は、けれどもやはりあたくしも、
所謂体験、皆さんもまたそう言う体験持っておられる事だろう。しかも取り分けそこんとこ大事して、言うなら喜びを育てて行く所のおかげでなきゃいけん。ね、同時に折角の喜びがです、ね、只辛抱出来ずに人の悪口をチョイトああただけばいち、言うて聞いて貰た事でもうそれが帳消しになる事あるなら、こげな馬鹿らしいはなか、もうこの人ばっかりはもう絶対人の悪口どん言う人じゃなか、と言われるくらいなね、あたしゃあの辛抱させて頂いた、ね、そして又それがお徳になってから、ね、有難い話しもまあ人ん悪口も、ね、お徳になってからもう動かん事なってから、ならこりゃまた別、と思います。ね、けれどそれが徳に育つと申しますかね、仁徳を受ける言わば修行中の時にはです、ここん所をひとつ多いに戒め自分の心の中に、ね、固くここんとこを誓わせて頂いて、えー本当に言わんぞと所謂黙ってね、治めると言うような事にもなる事なんです。折角話した事にあって喜びが消える、
そして又そう言うおかげを頂く為には時間がかかるような事であって、それを繰り返し繰り返ししておる事を堂々廻りの信心と言うのです。次ぎのおかげが次ぎのもっと別なましなおかげに育っていかなければ駄目なのですからね。どうぞ。